「バロン薩摩」という破天荒で大胆な人がいたという話を聞いたことがあります。その「バロン薩摩」こと、薩摩治郎八の祖父に当たるのが薩摩治兵衛です。治兵衛は近江の人です。
薩摩治兵衛は、1831(天保2)年、犬上郡四十九院村に生まれました。幼名は與三吉。父の茂兵衛は農業を営んでいました。その父が、治兵衛が9歳の時に亡くなり、残された一家の生活は苦しくなります。家族は村外れのあばら屋に引っ越し、母は小作や内職などをして、與三吉と弟を育てました。
そうした母の姿を見、與三吉は江戸へ奉公へ出たい旨を告げます。この暮らしを良くするためには、自らが懸命に働き、家族を支えることが必要であると考えたのでしょうか。母を説得した與三吉は江戸へ向かい、日本橋の近江商人、小林吟右衛門家(丁吟)の店で丁稚奉公を始めました。
そこでの與三吉の姿は、奉公人の鏡ともいえるものでした。給金は貯金し母へ仕送り、休みの日は他の奉公人が遊びに出る中で家で読み書きの稽古。與三吉は、信念の強い人だったのでしょう。江戸であれば、誘惑も多くあったでしょうし、昇進すればお金も少しは自分の自由にできるものもあったのかもしれません。ところが、そういった誘惑を置いてコツコツと働く真面目さは、幼いころに父を亡くし、母の苦労を見、自分が江戸で身を立てれば。。。と考えた信念に基づくものだったのではと想像します。
治兵衛の働きは、主人にも評価され、34歳の時暖簾分けを願い出、許されます。1866(慶応2)年、日本橋に「薩摩屋」を開き、木綿ならびに金巾(キャラ)を商うようになりました。外国商人とも商いを行って成功し、後には、洋糸の支店を同じ日本橋区に、また横浜にも支店を出すことになります。
治兵衛は「木綿王」と称され、「明治富豪26人」にまで名を連ねるようになり、1900(明治33)年にまさに立身出世を描いた人生を終えました。
彼が成功を収めてからも、故郷のことを思っていたと感じさせるエピソードがあります。それは愛知郡元持村の田地を1300円(当時)で購入し、収穫した米を故郷の村などの貧しい人に施していたそうです。この話は、彼の近江商人らしさを感じさせるエピソードだと思います。
【参考文献】
鈴木金輔編(1894)「帝国実業家美談」、鈴木金輔(近代デジタルライブラリー)
【調査事項】
・先人を偲ぶ館にいく
・バロン薩摩について調べる
・治兵衛の故郷への貢献を調べる