先日、道具として記した「近代デジタルライブラリー」。
私にとっては、宝の山なのですが、そちらにこんなコーナーがあります。
国立国会図書館にある資料(特に明治期刊行の写真帖)から、景勝地、建築物などの写真を、関東と関西に分けて掲載しています。
関西編では、滋賀も大阪も載っています。大阪の雑魚場のにぎわいなど、うつぼもこんな感じだったのかしらと想像させてくれて、ワクワクします。また近代建築の洒落た建物も魅力的です。
近代の商人について調べる際に、よく見ているのが、国会図書館が運営している「近代デジタルライブラリー」です。
以前、なにげなく先祖の名前を検索した時に、とある大学図書館に当時の引札が所蔵されていることを知りました。ほんとびっくり。そのデータを見た時に、これが配られていた頃はどんな感じだったのだろうと思うとともに、海の中から宝物を見つけたようにワクワクドキドキしたのを覚えています。
そこから、もしかして他にも何かあるかも、と調べる中で出会ったのがこの「近代デジタルライブラリー」です。
このサイトで、主に明治期から昭和20年前後までの図書、雑誌のデジタル化された資料を閲覧することができます。
私にとって、このライブラリーは広い広い海です。そこから先祖の名や、その他有名な商人たちの名前、無名であってもそこに名を残している商人たちを見つけると、宝物を見つけたような気持ちになります。
彼等の人生はどんなものだったのだろう。何があって、なぜこのまちで商いを始めたのか。名が消えた人はなぜ消えていったのか。そんなことを考えると、さらにさらに宝を探していきたくなります。
ここを見てくださった方の中で、ご先祖の名を近代デジタルライブラリーの中で見つけることができる方もおられるかもしれませんね(該当しそうなところを黙々と見ていくので肩こりに注意です)。
来年度には、国立国会図書館デジタルコレクションと統合されるとのことですが、このままデータが引き継がれることを願っています。

江南さんは1914(大正3)年生まれ、近江商人の事蹟についてまとめた本を多く出版されています。
その中の一冊、「近江商人列伝」(サンライズ印刷、1989年)のあとがきにある一節は、私にとって、とても心惹かれるものになっています。冒頭を一部引用させていただきます。
商家の家歴は皆無に等しい。それを探ね歩き、古文書や先学の文献を繙いて纏める仕事は、想像以上に困難な業である。そんな徒労にも等しい作業に十数年を費して、なお且つ不詳の事柄が多いことを憶うとき、伝えざれば存せずの理を、殊更に肝に銘じるのである。(あとがき、326頁)
私の先祖は、三田(あるいはは篠山)から大阪に出、靱で鰹節の問屋を開いていました。明治時代に生まれた曽祖父で3代目。3代目はいろいろあると言いますが、まさにいろいろあった3代目で、曽祖父は明治から大正に変わる頃、なんらかの事情で弟に店を渡し、自分は身を引いています。
その理由、そもそもどこの出なのか、なぜ鰹節屋なのか、遊びに出かけた曽祖父を幼い祖父と一緒に迎えに行ったという番頭さんはどこのどんな人だったのか、その番頭さんはどうなったのか、かなり大きく商売をしていたようですが、どんなふうに商いをしていたのか、疑問は次々と湧いてきます。
ところが、「伝えざれば存せず」なのです。往時のことを知る人は、みなさんこの世にはいらっしゃいません。当時を少し伝え聞いている叔父も80代、どんどん情報が霞の向こうに去っていきます。
曽祖父のことを調べようと、あれこれたどっているうちに、この「伝えざれば存せず」は決してうちだけの話ではなく、その他の商家にも当てはまると感じるようになりました。各地に作られた商店の多くが、よほど有名なものでなければ歴史が見えてこない。
商いをし、身を立てていく人びとの苦労と醍醐味。
それを「伝えて存する」状態にしていきたい。明治維新から約150年。昔のことを残せるものを残していくこと。江戸から明治に変わり、新しい時代の到来とそれにともなう変化の中で、商いを行った人たちから、今の時代に生きるわたしたちが学べることがたくさんあるように思っています。
そして、それは現代の商人たちも同じ。業を起こし、身を立てている人たちがいます。そうした人たちの記録を残していけるように。それらから後世の人が学べるように。
いつか商いに取り組んだ、取り組んでいる人びとについてまとめた本を出したいです。
「バロン薩摩」という破天荒で大胆な人がいたという話を聞いたことがあります。その「バロン薩摩」こと、薩摩治郎八の祖父に当たるのが薩摩治兵衛です。治兵衛は近江の人です。
薩摩治兵衛は、1831(天保2)年、犬上郡四十九院村に生まれました。幼名は與三吉。父の茂兵衛は農業を営んでいました。その父が、治兵衛が9歳の時に亡くなり、残された一家の生活は苦しくなります。家族は村外れのあばら屋に引っ越し、母は小作や内職などをして、與三吉と弟を育てました。
そうした母の姿を見、與三吉は江戸へ奉公へ出たい旨を告げます。この暮らしを良くするためには、自らが懸命に働き、家族を支えることが必要であると考えたのでしょうか。母を説得した與三吉は江戸へ向かい、日本橋の近江商人、小林吟右衛門家(丁吟)の店で丁稚奉公を始めました。
そこでの與三吉の姿は、奉公人の鏡ともいえるものでした。給金は貯金し母へ仕送り、休みの日は他の奉公人が遊びに出る中で家で読み書きの稽古。與三吉は、信念の強い人だったのでしょう。江戸であれば、誘惑も多くあったでしょうし、昇進すればお金も少しは自分の自由にできるものもあったのかもしれません。ところが、そういった誘惑を置いてコツコツと働く真面目さは、幼いころに父を亡くし、母の苦労を見、自分が江戸で身を立てれば。。。と考えた信念に基づくものだったのではと想像します。
治兵衛の働きは、主人にも評価され、34歳の時暖簾分けを願い出、許されます。1866(慶応2)年、日本橋に「薩摩屋」を開き、木綿ならびに金巾(キャラ)を商うようになりました。外国商人とも商いを行って成功し、後には、洋糸の支店を同じ日本橋区に、また横浜にも支店を出すことになります。
治兵衛は「木綿王」と称され、「明治富豪26人」にまで名を連ねるようになり、1900(明治33)年にまさに立身出世を描いた人生を終えました。
彼が成功を収めてからも、故郷のことを思っていたと感じさせるエピソードがあります。それは愛知郡元持村の田地を1300円(当時)で購入し、収穫した米を故郷の村などの貧しい人に施していたそうです。この話は、彼の近江商人らしさを感じさせるエピソードだと思います。
【参考文献】
鈴木金輔編(1894)「帝国実業家美談」、鈴木金輔(近代デジタルライブラリー)
【調査事項】
・先人を偲ぶ館にいく
・バロン薩摩について調べる
・治兵衛の故郷への貢献を調べる
先日、あるパン屋さんを探して日野町を訪ねました。

残念ながら、その日、目当てのパン屋さんは休みで、お楽しみは後日になってしまったのですが。
その際、見つけたのがこのマンホール。

雨のよく降る日でしたので、きれいに写真は撮れなかったのですが、近江商人の姿の入ったマンホールです。
なんとステキな。
他のモチーフがなにか調べてみると、
日野川
錦向山(わたむきやま):鈴鹿山系の霊峰。
ほんしゃくなげ:町の花
と日野町ゆかりの自然が表現されています。そこに後光のように朝日でしょうか。近江商人の旅立ちを照らしているようです。
「日野の千両店」という言葉がありますが、日野商人は小規模であっても多くの店を構えることで、各地に活動の拠点を設けていったと言います。各地を行商して回る近江商人が描かれたマンホールがよく似合う町です。

五個荘で出会った可愛い近江商人です。足が取れちゃってて。。。補修してあげたい。
私が近江商人など、江戸時代や明治、大正の商人に関心を持ち始めたのは、自分の祖父の代まで大阪で商売をしていたからです。
田中商店という店でしたが、その店の近くに同じ名字の田中市兵衛さんの家がありました。
田中市兵衛(1838-1910)は、明治時代の大阪の商業を語るなら欠かせない人物です。大阪商工会議所の会頭や議員などを務めた経済界の重鎮。先祖からの干鰯問屋を継ぎ、事業を大きくするだけでなく、様々な企業を設立、地域商業の発展にも貢献しています。晩年は時代の荒波にさらされた経験もあり、ドラマ化してほしいくらいの人です。
この市兵衛さんについて書かれた書籍を見ていると、「近江の出」となっていました。「近江屋」という屋号もあったようです。
ところが、近江商人に関わる書籍を読んでみても、この市兵衛さんの元々の出、近江のどこなのかが見つけられません。
近江八幡に田中江というところがあり、そこから近江商人が出ているようなので、そこかしらとも思ったり。
この市兵衛さんについては、引き続き調べていきたいと思っています。

【加筆】2015/8/21
この出会いがなかったら、ヤンマーも農業機械もディーゼルエンジンも生まれていなかったかもしれません。人が何かと出会うことが、その後の世の中を変えていくんですね。
ガス工事などの経験を積んだ山岡は、1907(明治40)年に山岡瓦斯商会を設立。徐々に中古ガス発動機の修繕、販売の仕事が増えたことから、1912(明治45)年、自分の誕生日に大阪市北区茶屋町に山岡発動機工作所を開きました。これがヤンマーの始まりです。
「ヤンマー百年史」を読んでいると、山岡の嗅覚の鋭さ、気づいたことを行動に移すパワーを感じます。
ガス発動機が電気モーターに追いやられていることに、「電気の届いていないところ」であればと商機を見出します。そこで打ち捨てられたガス発動機を入手し、整備、電気がまだ普及していない地域へ販売、それによって会社を成長させていきます。
また、第一次世界大戦時も、輸入されたものの販売の機会を逸したガス発動機の情報を知って、それを購入、販売へとつなげていきます。
山岡の行動力は、幼い頃からのものなのでしょうか。移民になることを考えたり、地元を出ることを考えたり、パワーを発揮する場所を常に探し求めているような印象があります。

山岡孫吉は、1888(明治21)年、滋賀県伊香郡東阿閉村の農家に生まれました。
小学校高等科を卒業後、村を出たいとの思いを強くし、最初はアメリカへの移民を考えます。ところが、移民になるには、保証金が必要だったそうです。そのお金が工面できない。また未成年でもあり、山岡は移民になることは諦めました。
しかし、やはり村を出ていこうと、1903(明治36)年、兄を頼って大阪に奉公に出ることにしました。
少しのお金を持って、大阪へ向かいます。今だと在来線で約2時間弱。当時は汽車で行ったのか、湖上交通も使ったのか。山岡の大阪への旅はどんな旅だったのでしょうか。
山岡は大阪で様々な仕事を経験します。天満のメリヤス屋、写真の台紙屋など。ちょうど彼が大阪に出た翌年、1904(明治37)年に日露戦争が始まります。その頃の大阪は、「大大阪」に向けての成長期。東阿閉から大阪に出てきて働く山岡がどんな景色を見たのか、何を思ったのか。とても気になります。
やがて山岡は、体調を崩し、その療養中に釣りに出た先で、大阪瓦斯の社員と出会います。その縁が彼の人生を変えることになります。
【追記】
「ヤンマー百年史」によると、山岡は当時高価な汽車ではなく、水上交通を用いて大阪まで出たそうです。
【調査事項】
・当時の移民の仕組み
・当時の滋賀の交通機関
・山岡の大阪での奉公先:天満のメリヤス屋はどこか。
・写真の台紙屋とは何か。
【最終更新日】2015/8/20
ヤンマーの創設者、山岡孫吉は、1888(明治21)年、滋賀県伊香郡東阿閉村(今の長浜市高月町東阿閉)の農家に生まれました。





東阿閉の集落を訪ね、車を走らせていると、こんな風景を目にすることができます。

滋賀の農村地域らしい田んぼに囲まれた家々の中に、ぽつりとヨーロッパ風の建物が見えます。
これが通称「ヤンマー会館」。山岡が、生まれ故郷に寄贈したもので、現在は公民館として使われています。

近くに行くと、その建物の立派さはもちろん、1952(昭和27)年築と約60年たつ建物にもかかわらず、清潔に美しく保たれていることに驚きました。

写真を撮っている間も、地域の方でしょうか、何人かの方が出入りされていました。プランターに花が植えられていたり、周囲の木々は美しく形を整えられていたり、ゴミも落ちておらず、大切にされているようです。


公民館前の広場には、山岡孫吉の顕彰碑がありました。これまた立派な石を用いて建てられています。
農家に生まれた山岡が、ヤンマーを作り、故郷にこのような立派な建物を寄贈するまでにはどんないきさつがあったのでしょうか。
【東阿閉自治会事務所(通称:ヤンマー会館)】
今も地域の方に使われており、内部は非公開とのことです。

「ヤン坊マー坊天気予報」
と聞くと、あのメロディーを思わず口ずさんでしまいます。可愛らしい二人の坊やが伝えてくれる天気予報が半世紀にわたって放映されていましたが、もうやっていないんですね。彼らヤン坊とマー坊は農業機械で有名なヤンマーのキャラクターです。
今や、佐藤可士和さんの手によってスタイリッシュな世界的企業になりつつあるヤンマー。その創業者は滋賀に生まれ、大阪に奉公に出て、自分の力を発揮する道を見出した人でした。
名を、山岡孫吉(1888-1962)といいます。
彼の時代に生きた人たちで名を挙げた人は、人生で出会ったものをうまくつかみとっていった人だと思います。まずつかんでみる。違っていたら変えていく。
彼について調べてみたいと思います。
【参考文献】
NPO法人三方よし研究所編(2005)「近江の商人屋敷と旧街道」、サンライズ出版